それぞれの戦争体験

日常

 義父は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期、中学生だった。軍へ配給する野菜作りのため、兵庫県の山間部で奉公隊として農作業に従事した。毎日過酷な労働を強いられていたであろうにも関わらず、1日の食事は朝食の1回のみで、お粥みたいな粗末なものだった。

 しかし、義父はそんな劣悪な労働環境に置かれても、
「兵隊さんのため」
「お国のため」
 と、一生懸命働いた。

 「あと1年早く生まれていたら入隊できたのになぁ」
 と、妻に話したことがあるそうで、兵隊として日本のために戦えなかったことに今でも負い目を感じていると言うか未練があるみたいだと、妻から聞いたことがある。

 気骨のある義父である。加えて当時中学生だったら一番血気盛んな時期なので、義父はも少し年長だったら間違いなく特攻を志願していたことだろう。

 因みに義父は、今でも毎日のように最愛の妻(義母)を車に乗せてあちらこちらへドライブするスーパー老人である(夏場は除く。死んじゃうから)。

 義母は、中学進学1ヶ月前の昭和20年(1945年)3月に疎開先から実家の大阪市生野区に戻った。

 中学校が天王寺にあり、第三回第四回の大阪大空襲では、米軍の照準点のひとつが天王寺駅周辺だったので、義母は対岸の火事でなく、空から降ってくる焼夷弾の中を逃げ惑う体験をしている。

 通学は電車を利用して1時間ほど掛かり、空襲の後、学校から自宅へ帰るにも天王寺駅は破壊され、電車は当然動ける状態でない。徒歩で帰るのだが、辺りは焼け野原。どこをどう行けば自宅へ帰れるのか道に迷い、線路の上を歩いて半日掛けて帰ったと言っていた。幸い自宅は空襲の被害から免れていた。

 また、義母は妻に、
「電線には“いろんなモノ”がぶら下がっていた」
 と、話したことがあったそうだ。“いろんなモノ”とは人間の身体の部位のことである。

 当時を述懐して義父母が口を揃えていう言葉が、戦争の悲惨さは元より、
「食べるものがなかった」
 である。義母は戦後も食糧難で食べるものがなかったと言っていた。

 余談だが、妻の話しでは、義父母はこの時期になると戦争の話しになり、いつも喧嘩になるそうだ。それは、義父がさも自分が経験したように戦争のことをいろいろ話すことに義母は腹を立て、
「私が空襲で逃げまわっていたとき、あんたは、山の上から見てたんや!」
 と、したくもない宣戦布告をして闘いがはじまるそうだ。この後どのように収拾するのか、一度拝見したいものだ。

 妻曰く、我が家の夏の風物詩や。

 さて、わたしの父母の当時だが、父は確か昭和17年(1942年)、赤紙招集で陸軍に入隊し宇都宮の部隊に配属した。その後、九十九里の部隊に異動して、終戦半年前に下士官(軍曹)に昇格した。

 下士官になると上官から意味もなく殴られたり、パシリにされることもなく、顎で使える部下はワサワサいる。軍隊に居れば食べることにも不自由はしない。父は「これで少しは楽になれる」と、思ったそうだ。

 そして、ただの一度も外地での激戦や内地の空襲や空腹を経験することなく、終戦までをのほほんとお花畑部隊で過ごした。

 恐らく、父は玉音放送を九十九里の部隊で拝聴したのだろう。父は、何故日本が負けたのか信じられなかったそうだ。そして、部隊から東京に戻る列車の窓から東京下町の辺り一面焼け野原の光景を目の当たりにして愕然とし、はじめて「これじゃぁ日本が負けて当然だ」と、思ったそうだ。まるで他人事である。
┐(´ヘ`)┌

 晩年の父が、自身の半生を振り返り、
「軍隊時代が一番ラクだったなぁ」
 と、ぼそっとつぶやいたのを思い出す。

 母は昭和9年(1934年)、当時日本の植民地だった台湾の花蓮(かれん)で生まれ、終戦で本土へ引揚げるまでの12年間をここで暮らした。

 昭和初期、祖父(母の父)は、台湾の花蓮港警察署の署長だった。花蓮の住まいは1000坪あり、花蓮では「椰子の木の家」と言われ、有名な屋敷だったようだ。台湾人の女中も数人雇い、庭にはパパイヤ、バナナ、ライチ、グァバ、蓮霧(レンブ)の木があり、ゴボウ、人参、さつまいも、ほうれん草、不断草を自家栽培していた。

 生前の母に当時のことを聞いたことがあるが、
「特攻隊の人たちを見送るのに花を持って飛行場まで行ったことがあるけど、白いマフラーを絞めた特攻隊員が素敵だったわ、でもあの人たちは死んじゃったのよね」とか、「B29が飛んでいるところを見たことがあるけど、綺麗だったわよ」と、戦争の悲惨さは微塵も感じられなかった。

 空襲はなかったのかと聞くと、
「花蓮港にも空襲はあったのよ」
 とは言ったが、自宅が被災するでなし、家族を亡くすでなし、義母とは真逆の対岸の火事だったと思う。

 戦争末期になると、毎日を満足に腹を満たすことはできなくなっていたようだが、それでも家には女中がいたり、自家栽培をしていて、云わば庶民とは掛け離れた生活だったので、「戦争中より引揚げた後の生活のほうが大変だったわ」と、母は言っていた。

 母が当時を回想して真っ先に思い浮かべる悲惨な出来事と言えば、戦争とは全く関係のない、花蓮の部隊に遊びに行ったとき、兵隊たちにすき焼きをごちそうしてもらった時の話である。

 部隊の中で兵隊数人が七輪を囲んですき焼きをやっていたそうだ。兵隊のひとりが母に美味しいからお食べよと誘い、母はすき焼きをいただいたのだが、とても美味しい肉だったそうだ。

 しかし、食べた後に兵隊からその肉が“犬の肉”であることを聞いた母は、みるみるうちに顔が青ざめ、一目散に自宅に帰り、嘔吐して高熱を出してうなされながら寝込んでしまった。

 そして、その話しを聞いた祖父は激昂して部隊に乗り込んで部隊長に、
「娘に犬の肉を食べさせるとは何事ぞ!」
 と、叱りつけたそうだ。

 いやはや、警察署長さまが? 娘が高が犬の肉を食わされたくらいで? 部隊に乗り込んで? 部隊長を叱りつける?

 過保護だぁ〜、今の社会で例えると、祖父の行為はモンスターペアレントかも^^; マスコミも、すぐにこのことを取り上げ、祖父は記者会見で、
「自分の立場を忘れ、公私混同した由々しき行為について深くお詫びいたします」
 と、言って潔く辞表を出すか、それとも、
「その時の自分は私人だった。子を持つ親なら分かって貰えるはずです!」
 と、断固自分の行為を正当化するか・・・まぁ、祖父だったら前者だろうな。昔でよかったねお祖父ちゃん。

 終戦後、台湾を統治したのが中国国民党の蒋介石。母の家族は終戦の翌年に台湾から本土に引揚げてくるが、その間、台湾人による日本人に対する暴行、略奪、襲撃はまずなかったようだ。蒋介石が親日だったのか、毛沢東率いる中国共産党に対峙するため、一日も早く台湾から日本人を追い出したかったのかは知らないが、「台湾からの日本人の本土引揚げはスムーズに行われた」と、母は言っていた。

 引揚げ前のある日、母は小学校からの下校途中に台湾人の男の子たちから、
「ちゃんころ、ちゃんころ」
 と、からかわれたそうだ。

 日本が戦争に負けるまでは、台湾人が日本人にそんなことを言うことはなかった。
「バカ!ちゃんころはお前たちのことだ。中国人のことを“ちゃんころ”って言うんだ!」
 と、母が言い返したら、台湾人の男の子たちは黙り込んでしまったと言う。

 子どもたちにしてみれば、“ちゃんころ”がどういう意味なのか分からずも、相手を蔑視する言葉であることは理解していたのだろう。

 また、これも引揚げ前のある日、母が道を歩いていると、向こう側からひとりの中国兵士がニコニコしながら母に近づいてきたそうだ。

 母は、拐われる(中国兵が日本人の子どもを誘拐する噂があった)と思い、踵を返し一目散で逃げたが、兵士は母を追いかけてきた。母はなんとか逃げきることができたのだが、いよいよ本土へ帰国する日、引揚げ船に乗る前の検閲所にその中国兵士がいたそうだ。

 母は、もうこれで私は拐われて日本には帰ることができないんだと身も凍る思いをしたそうだが、その中国兵士(実は将校だった)は通訳を介して、
「(母が)あまりにも可愛かったので、ガムをあげようとした」
 と、話したそうだ。

 母は紛れも無く台湾のちびまる子だったと思う。

 一言で戦争体験者と言っても、話の蓋を開ければ色とりどりである。一緒くたにできるものではない。
(-。-)y-゜゜゜